
中級8
時間の矢・エントロピーの謎
氷が溶けたり煙が広がったりする現象はなぜ逆戻りしないのでしょうか。ミクロな物理法則は時間対称なのに、マクロな世界で一方向性が現れる理由をエントロピーと宇宙の初期条件から解き明かします。
時間の矢とは、過去と未来が同じに見えず時間に向きがあるように感じられる性質のことです。過去は記録や痕跡が残り原因がすでに起こっている状態で、未来はまだ記録がなく結果が未確定で予測しかできません。私たちは前と後を区別でき、多くの現象が一方通行に見えますが、この非対称性の理由を探るのがテーマです。
氷が溶ける・コップが割れる・香りや煙が広がるといった日常の現象は自然に逆戻りしません。変化には方向があるように見え、元の状態は特殊で整った状態です。巨視的な世界では不可逆性が目立ち、時間の矢は「元に戻りにくい」という形で日常に現れています。
意外なことに、粒子や運動を支配するニュートン力学・電磁気学・量子力学などの基本法則の多くは時間を逆にしてもほぼ同じ形で成り立ちます。ただし弱い相互作用では小さな時間反転非対称性が関係するという例外もあります。では、なぜ現実の世界では未来と過去が同じに見えないのでしょうか。鍵は多数の粒子がつくる統計的なふるまいにあります。
エントロピーは「どれだけ多くの微視的な並び方がありうるか」を表す量で、ざっくり言えば「乱雑さ」や「起こりやすさ」の尺度です。S=k log W(可能な並び方Wが多いほどエントロピーSは大きい)という式で表されます。熱力学第二法則によると孤立系ではエントロピーは減りにくく全体として増大する方向に進みます。整った状態は特殊で少なく・乱雑な状態は圧倒的に多いという偏りが時間の向きを生みます。
エントロピーが増えやすいのは法則が押し上げるからではなく、高エントロピー状態のほうが圧倒的に場合の数が多いからです。粒子がきれいに整列した特殊な配置はごくわずかしかない一方、無秩序な状態は無数にあります。系は珍しい状態よりはるかに起こりやすい状態へ移りやすく、不可逆性は統計的な性質です。粒子が多いほど一方向性が強くなり、日常世界では逆戻りは事実上起こりません。
時間の矢を本当に理解するには、なぜ宇宙が最初にとても低エントロピーな状態から始まったのかを考える必要があります。初期宇宙は高温・高密度でしたが、重力の観点ではほぼ一様な状態はじつは低エントロピーです。宇宙の膨張とともに星・銀河の構造が生まれエントロピーが増えてきました。時間の向きは宇宙全体の歴史と結びついており、なぜ最初がそんなに特別だったのかは今も深い謎です。
私たちが過去は覚えていても未来は覚えていないのは、記録や記憶がエントロピー増大の過程で作られるからです。記憶の矢(記録は過去について作られる)・因果の矢(原因が先・結果が後とみなされる)・心理的時間(意識は未来へ向かって進むように感じる)という三つの側面があります。時間の矢は物理だけでなく、私たちの認識や経験の中にも現れています。
時間の矢にはいくつかの種類があります。熱力学の矢(エントロピーが増える向き)・宇宙論の矢(宇宙が膨張する向き)・心理的な矢(私たちが未来へ進むと感じる向き)・放射と因果の矢(波や信号が原因から結果へ広がる向き)です。私たちの宇宙ではこれらの矢がそろって同じ向きを向いているように見えており、最も基本なのは熱力学的な矢と考えられることが多いです。
今回は、時間の矢はなぜ一方向なのかについてお伝えしました。ミクロな物理法則の多くは時間反転にほぼ対称ですが、それでも巨視的な世界ではエントロピー増大により一方向性が現れます。その背景には低エントロピーで始まった宇宙の初期条件があり、なぜ宇宙がそのように始まったのかは今なお未解決の大きな謎です。時間の矢は法則・確率・宇宙・人間の記憶が重なって生まれる見かけ上の向きです。