
中級4
物理・熱力学・宇宙論
時間の矢はなぜ一方向なのか
編集部
なぜ時間は過去から未来へと一方向に流れるのでしょうか。この問いに答えるのが「時間の矢」という概念です。熱力学第二法則・エントロピー・宇宙の初期条件を通じて、時間の一方向性の謎に迫ります。時間の一方向性は「未来に向かってエントロピーが増えやすい」という統計的な偏りと、宇宙が非常に低エントロピーな状態から始まったことに深く関係しています。
「時間の矢」とは、変化が起こるときに過去から未来へという向きに進みやすいことを指します。たとえば割れていない卵が割れることはあっても逆は起こらず、香水の一滴は部屋中に拡散し、熱いコーヒーは冷めていきます。私たちが感じる時間の特徴として、原因が先で結果が後であること、過去は記憶できるが未来は記憶できないこと、痕跡や記録は過去に残ること、多くのマクロな変化は元に戻りにくいことが挙げられます。
物理学の基本法則には驚くべき特性があります。力学や電磁気学、さらにはシュレーディンガー方程式でさえ、時間を逆向きにしても方程式はほぼ変わりません。ビリヤード球の衝突は前向きでも逆再生でも方程式が成り立つのです。では現実の世界ではなぜ一方向にしか進まないのでしょうか。それは「法則の対称性」の問題ではなく、マクロな状態での「起こりやすさ」の問題です。「法則が対称なのに、なぜ私たちの世界は不可逆に見えるのか」という謎がここにあります。
時間の矢の物理的根拠となるのが熱力学第二法則です。孤立系では全エントロピーSは時間とともにしか増さない(ΔS≧0)というこの法則は、閉じた系がエネルギーを保存しながらもエントロピーが増大する方向へ自然に進むことを示しています。熱が高温から低温へ流れること、香水が部屋に広がること、氷が溶けることがその日常的な例です。なお熱力学第二法則は統計的な法則であり、ミクロの系では一時的にエントロピーが減ることもあります。
エントロピーはしばしば「乱雑さ」と説明されますが、より正確にはミクロな状態(配置)の数と対応する概念です。S = kB ln W という式で表され、Wは実現可能なミクロ状態の数です。たとえばきれいに積み上げられた本(低エントロピー)に対して、取り散らかした置き方は膨大な数があります(高エントロピー)。高エントロピー状態の方が実現できる並べ方が圧倒的に多いため、「自然に」任せると系は高エントロピー状態へ進んでいきます。
同じエネルギーをもつ状態の中でも高エントロピー状態の数が圧倒的に多いため、系が自然に進むと高エントロピーな状態へ移っていきます。この数的な偏りが私たちが感じる「時間の向き」を生んでいます。可逆かどうかではなく「起こりやすさ」の問題であり、粒子の数が多いほど「元に戻る」状態はほぼ起こりえません。時間の矢は「未来に向かって何が圧倒的に起こりやすいか」という統計法則として理解できます。
熱力学第二法則によればエントロピーは未来に向かって増大します。ということは過去のエントロピーは低かったはずです。時間の矢を本当に理解するには「なぜ過去が低エントロピーだったのか」という問いへたどり着きます。初期宇宙は高温・均一な状態でしたが、重力の観点からは「低エントロピー」とみなされます。その後の銀河・星形成を経て現代の宇宙へとエントロピーが増大してきており、宇宙の特別な初期条件が時間の矢の根本にあります。
人の記憶、写真、足跡、パソコンのログなどの「記録」は物理的な痕跡です。記録が残るためにはエントロピーが増大する過程が必要です。なぜ私たちは未来を「記憶」しないのかというと、記憶は物理過程として作られ情報が生まれる過程で熱が増えるからです。だから私たちは情報的な時間の流れを「過去→未来」と感じます。「過去だけを覚えている」という私たちの感覚も、物理過程としての不可逆性に支えられています。
時間の矢には複数の側面があります。エントロピーが増える向きの「熱力学的時間の矢」、私たちが過去を記憶し未来に期待する「心理的時間の矢」、宇宙が膨張してきた「宇宙論的時間の矢」、量子系が環境と相互作用して古典的に見える「量子的時間の矢」があります。最も基礎にあるのは熱力学的時間の矢で、宇宙の低エントロピー初期条件が全体の向きを与え、私たちの認知や記録もその上に成り立っています。「時間」は複数のレベルで現れる非対称性の総称として理解できます。
今回はなぜ時間は一方向に流れるのかについてお伝えしました。多くのミクロ法則はほぼ可逆的ですが、マクロでは熱力学第二法則が効き、エントロピーは「状態数の多さ」を表すため高エントロピー状態が圧倒的に起こりやすくなります。そして宇宙の特別な低エントロピー初期条件がこの時間の矢を生んでいます。「時間の矢とは、未来に向かってより起こりやすい変化の向きである」というこの答えは、「なぜ宇宙がそう始まったか」という深い問いへと私たちを導きます。