19世紀末から20世紀初頭にかけて、列強の進出と不平等条約によって清朝の主権は大きく揺らぎました。財政難・汚職・農村不安が清朝への不満を拡大させ、日清戦争・義和団事件後には国家の弱さが広く露呈しました。漢民族のエリートのあいだでは「王朝では中国を守れない」という危機感が高まり、体制変革を求める声が強まっていきました。
清朝は体制の立て直しを試みましたが、十分な成果には至りませんでした。洋務運動は軍事・産業の近代化を進めましたが、政治改革は限定的でした。1898年の戊戌変法は急進的な改革を試みましたが、保守派に阻まれました。義和団事件後の「清末新政」では教育・軍制・地方制度の改革が進んだものの、改革は遅く、民衆と知識人の信頼を回復するには至りませんでした。
孫文は興中会を結成し、清朝打倒の理念を広めました。1905年には東京で中国同盟会が成立し、革命運動の組織的な中心となりました。孫文が提唱した三民主義(民族・民権・民生)が革命の基本理念となり、海外華僑や留学生の支援が運動を財政的・思想的に支える重要な力となりました。
四川の鉄道国有化問題への反発が各地の不満を刺激し、1911年10月10日、湖北・武昌で新軍の軍士が蜂起しました。蜂起は成功し、革命政府の樹立へとつながりました。その後、各省が次々と独立を宣言し、清朝支配は急速に崩れていきました。この日付は現在も「双十節」として中華民国(台湾)の建国記念日とされています。
清朝は実力者・袁世凱を再起用し、事態の収拾を図りました。一方、革命派は南北和議を通じて王朝の退位と共和政の実現をめざしました。1912年2月12日、宣統帝(溥儀)が退位し清朝は滅亡しました。これにより数千年にわたる中国の皇帝支配は終わりを告げ、共和政への転換が実現しました。
1912年1月1日、南京で中華民国臨時政府が成立しました。孫文が臨時大総統に就任し、新国家の出発を宣言しました。臨時約法は共和政・国民の権利・統治の原則を明示し、王朝ではなく「国民国家」をめざす新しい政治理念が前面に打ち出されました。共和・国民・憲政という三つの理念が新国家の柱となりました。
孫文は国家統一のため、臨時大総統の地位を袁世凱に譲りました。しかし政治の主導権は軍事力を持つ北洋勢力に移り、安定した議会政治は育ちにくい状況が続きました。地方軍閥の自立や旧体制の慣行が残り、近代国家建設はすぐには進みませんでした。辛亥革命は「帝政打倒」には成功しましたが、「強い共和国」の建設は未完に終わりました。
辛亥革命は中国とアジアの政治意識を大きく変えた転換点でした。中国で数千年続いた皇帝支配が終わり、民族主義・共和主義・近代国家意識が広く共有されるようになりました。その後の五四運動や国民革命にも思想的影響を与え、20世紀アジアにおける反帝国主義・国民国家形成の象徴的事件となりました。
今回は辛亥革命と中国近代についてお伝えしました。清朝末期の危機と改革の限界が革命の土壌をつくり、武昌蜂起から清朝滅亡へと急速に政変が進みました。中華民国の成立は近代中国の新たなスタートでしたが、国家統合と民主政治の実現には多くの課題が残されました。革命は「成功」だったのか、それとも「未完」だったのか——歴史の問いは今もなお続いています。