
中級3
世界史・近代史
辛亥革命と中国近代
編集部
孫文(1866〜1925)は近代中国革命の父と呼ばれ、清朝打倒と中華民国建国をめざした革命家です。本名は孫文、字は逸仙で、1866年の誕生から1911年の辛亥革命、1912年の中華民国成立へと、中国近代史の転換点をつくった人物として知られています。
孫文は1866年、広東省香山(現在の中山市)に生まれました。少年期にハワイで学び西洋的な思想や知識に触れ、その後香港で医学を学びました。清朝の腐敗と列強の進出に強い危機感を抱き、医師から革命家へと進んでいきました。清朝の衰退・列強の進出・改革への期待が高まるなかで、孫文は時代と向き合いました。
孫文の革命思想は危機にある中国社会への問題意識から生まれました。清朝政府は弱体化し改革が進まず、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・アメリカ・日本が中国へ強い影響力を持っていました。不平等条約により主権が制限されて人々の不満が高まり、甲午戦争などで国家の弱さが明らかになりました。「このままでは国が立ちゆかない」という強い危機感が、旧体制から近代化へという変革の必要性を孫文に訴えかけていました。
孫文は組織づくりと蜂起を通して清朝打倒をめざしました。1894年にハワイで「興中会」を結成し、「清を倒し中国を再建すること」を目標に掲げました。海外華僑の資金援助とネットワークを活用しながら活動を続けましたが、広州蜂起など武装蜂起は何度も失敗しました。それでも革命運動をあきらめず、武装蜂起と宣伝活動の基盤を全国的に広げていきました。
孫文の政治思想の中心となる考え方が「三民主義」です。民族主義は外国の支配や圧力をしりぞけ民族の独立をめざすもの、民権主義は国民が政治に参加し共和政を実現するもの、民生主義は人々の生活を安定させ経済的な不平等を改善するものです。三民主義は国家の独立・民主政治・国民生活の向上を同時にめざす思想でした。
1911年10月10日、武昌起義が起こったことをきっかけに革命は一気に広がりました。各地で独立の動きが相次ぎ清朝支配が崩れていきました。革命勢力は全国へ広がり、王朝体制の終わりが近づきました。国外から帰国した孫文は革命の象徴的指導者となり、辛亥革命は二千年以上続いた皇帝支配の終焉につながりました。
革命の成果として、1912年に南京で中華民国が成立しました。孫文は初代の臨時大総統に就任し、「皇帝の国」から「国民の国」への転換を象徴しました。しかし軍事力や政治基盤はまだ弱く政局は不安定で、新国家建設は理想と現実のはざまで始まりました。清から中華民国へ、中国初の共和国家の誕生でした。
中華民国成立後も孫文の理想はすぐには実現しませんでした。清朝の皇帝支配を克服したものの袁世凱に大総統の地位を譲り、しかし袁世凱はしだいに独裁的になっていきました。1913年孫文は「第二革命」を試みましたが失敗し、その後も革命と国家の平和を守るため「護法運動」を進めました。
晩年も孫文は革命の再建と中国統一をめざし続けました。広州を拠点に国民政府の再建を進め、ソ連の助言と支援を受けて組織改革を行いました。1924年には第一次国共合作が成立し、国民党と共産党が協力して軍閥討伐と中国の統一・独立を目標に掲げました。「革命はいまだ成功せず、同志諸君、努力せよ」という言葉を残し、1925年孫文は病気のため死去しました。
孫文は近代中国の出発点をつくった人物として高く評価されます。清を廃して革命によって政治改革を実現し、中国・中華民国の象徴として記憶されています。三民主義を通じて国家の理想像を示し、中国本土と台湾の両方で「国父」「革命の父」として尊敬されています。革命・共和政・三民主義を体現した孫文の思想と行動は、今も東アジア史を考えるうえで重要です。