
中級5
市場倫理・政治哲学
それをお金で買いますか
マイケル・サンデル
マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」は、ハーバード大学で行われた大人気講義を書籍化したものです。功利主義・リバタリアニズム・カントの義務論・アリストテレスの共同体主義という主要な正義の理論を身近な問題に当てはめながら、「正義とは何か」を徹底的に問い直します。このスライドでは、サンデルの正義論の核心を10枚のスライドでわかりやすく解説していきます。
マイケル・サンデルは1953年アメリカ生まれの政治哲学者で、ハーバード大学教授として長く活躍しています。「JUSTICE(正義)」の講義はハーバード大学史上最も多くの学生が受講したとされ、講義動画はインターネットで世界中に公開されています。日本でも「これからの正義の話をしよう」(2010年)がベストセラーとなり、哲学・倫理学への関心を広く社会に広める役割を果たしました。
サンデルが最初に検討する正義の理論が功利主義です。ジェレミー・ベンサムが提唱し、ジョン・スチュアート・ミルが発展させたこの立場は、「行為の正しさはもたらされる幸福(功利)の最大化によって決まる」と考えます。例えばトロッコ問題では、5人を救うために1人を犠牲にすることは功利主義的に正当化されます。しかしサンデルは、功利主義は少数者の権利を多数の利益のために踏みにじる危険があると指摘します。
次にサンデルが取り上げるのはリバタリアニズムです。ロバート・ノージックらが代表する立場で、「個人は自分自身と自分の労働の所有者であり、自由な交換から生まれた結果は正当だ」と主張します。この立場からは、強制的な再分配(累進課税など)は個人の権利の侵害であり不正義となります。サンデルは、この立場は個人の自由を重視する一方で、出発点の不平等や市場の限界を見落とすと批判します。
イマヌエル・カントの道徳哲学は、結果ではなく行為そのものの道徳的性質を重視します。カントは「人を常に目的として扱い、手段のみとして扱ってはならない」という「定言命法」を提示しました。功利主義のように結果によって行為の正当性を評価するのではなく、普遍的な義務(人間の尊厳の尊重)に従って行動することが正義だと考えるのです。サンデルはこの立場の強さと限界の両面を丁寧に検討しています。
ジョン・ロールズは「公正としての正義」を提唱し、サンデルも重要な対話相手として位置づけます。ロールズは「自分が社会のどの位置に生まれるかを知らない状態(無知のヴェール)で社会のルールを決めるなら、人々は最も不利な立場の人を守るルールを選ぶだろう」と論じました。この思考実験から、格差は社会の最弱者に利益をもたらす場合にのみ正当化されるという「格差原理」が導かれます。
サンデル自身の立場はコミュニタリアニズム(共同体主義)に近いとされます。リバタリアニズムやカント・ロールズの自由主義が「負荷なき自己」——共同体から切り離された孤立した個人——を前提とするのに対し、サンデルは「私たちは共同体・歴史・文化の中に埋め込まれた存在だ」と主張します。正義を語るには、善い生き方・共通善・市民としての徳についての議論が不可欠だと述べています。
サンデルは後の著作「それをお金で買いますか」でも論じているように、市場による効率的な資源配分がすべての領域に適用されるべきではないという立場を持っています。人間の尊厳・公民としての義務・社会的連帯・教育の機会などは、市場価格で評価・取引されるべきではないと主張します。「正義の問題は、何を市場に委ねてよいかの問いと不可分だ」というのがサンデルの一貫したテーマです。
サンデルは「正義の理論」を徴兵制・アファーマティブ・アクション・同性婚・富の再分配など現実の政治問題に適用して議論を展開します。これらの問題に対して功利主義・リバタリアニズム・義務論・共同体主義がそれぞれ異なる答えを導くことを示し、どの立場をとるかが政治的選択の根底にあることを明らかにします。哲学が「象牙の塔の議論」ではなく、現実の政治・社会と直結していることをサンデルは示しています。
サンデルの「これからの正義の話をしよう」は、正義について一つの答えを与える本ではありません。功利主義・自由主義・義務論・共同体主義という複数の視点を通じて、「善い社会とは何か」「私たちはどう生きるべきか」という問いを読者自身が考えるよう促す本です。今回はサンデルが提示した正義論の諸相と、哲学が現実社会に持つ力についてお伝えしました。