
初級7
中世・聖地をめぐる遠征
十字軍
編集部
「獅子心王」の異名を持つイングランド王リチャード1世の生涯を10枚で解説します。第3回十字軍を率いてサラディンと戦った武勇の王は、なぜエルサレム奪還を果たせなかったのでしょうか。このスライドでは、若き日のリチャードと王位継承・アンジュー帝国と支配領域・なぜ十字軍へ向かったのか・アッコン包囲戦とアルスーフの戦いなど、10枚のスライドでわかりやすく解説していきます。
リチャードは1157年、ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの子として誕生しました。アキテーヌで育ち、軍事と統治を学んでいます。父ヘンリー2世とはたびたび対立し、1189年にヘンリー2世が亡くなると王位に就きました。有力な王家に生まれ、戦う君主として成長した人物です。
リチャードはイングランド王であると同時に、フランス各地にも大きな領地を持っていました。支配領域はイングランド、ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌに及びます。海をまたぐ支配は封建関係を複雑にし、戦争と外交が不可欠でした。また、フランス王との緊張関係も続きました。
1187年、サラディンがエルサレムを奪回し、キリスト教世界に大きな衝撃が広がりました。リチャードは名誉と信仰を掲げて遠征を決意し、フランス王フィリップ2世も参加しています。遠征の目的は聖地の回復、王の威信向上、そしてキリスト教世界の結束でした。リチャードの名声は、この十字軍によって決定的に高まりました。
アッコン包囲戦(1191年)では、長い包囲の末に十字軍が要地アッコンを奪取しました。忍耐と補給が勝因となっています。アルスーフの戦い(1191年)では、機動力と統率でサラディン軍を撃退し、リチャードの軍事的才能が高く評価されました。勇猛さだけでなく、指揮官としての実力も示した戦いです。
リチャードはエルサレム奪還を目指しましたが、補給や政治的事情から進軍は難しい状況でした。サラディンとの間で激しい攻防が続いた末、1192年に休戦協定を結びました。協定の内容はキリスト教徒の巡礼を認めるというもので、エルサレムはイスラム側が保持することになりました。完全勝利ではありませんでしたが、現実的な妥協として評価されています。
十字軍の帰国途中、リチャードはオーストリア公レオポルト5世に捕らえられ、その後神聖ローマ皇帝側に引き渡されました。解放には巨額の身代金が必要となり、イングランドでは重い課税によって資金を集めました。この身代金は当時としても非常に高額で、国に大きな負担を与えました。
リチャードは在位中の多くを遠征や戦争に費やし、イングランドへの滞在は短いものでした。軍事費や身代金のために課税が重くなる一方で、王権の威信と軍事的名声は高く保たれました。軍事指導力と王家の威信が強みである反面、高い財政負担と国内不在が課題でした。名君か否かは、視点によって評価が分かれます。
1199年、フランスのシャリュ城を包囲中にリチャードは負傷し、傷が悪化して同年に死去しました。王位は弟ジョンに引き継がれ、その後、王家と領土は不安定化していきます。リチャードの死はイングランド王権の流れを大きく変えた歴史の転換点となりました。
リチャードは勇猛でカリスマ性の高い王として知られ、第3回十字軍で軍事的名声を確立しました。一方、統治面では戦争中心で国内不在が多く、英雄視と批判の両面を持つ評価となっています。1157年に生まれ、1189年にイングランド王に即位、1191年に第3回十字軍に出発してアッコンを占領し、1199年に帰国途中に死去しました。リチャード獅子心王は中世ヨーロッパを象徴する「戦う王」の代表格として今も語り継がれています。