476年、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位し、西ローマ帝国は滅亡したとされます。背景には政治の混乱、経済の衰退、軍事力の低下、異民族の移動がありました。この出来事はヨーロッパが古代から中世へ移る象徴とされており、395年の東西分裂、410年・455年のローマ略奪を経て476年の滅亡へと至りました。
395年、テオドシウス1世の死後、ローマ帝国は東西に分割されました。東ローマ帝国はコンスタンティノープルを中心に比較的安定していましたが、西ローマ帝国は財政基盤が弱く、外敵への対応も難しい状態でした。同じローマでも、西側のほうが早く衰退していったのです。
西ローマでは皇帝の交代が頻繁で、政権が安定しませんでした。有力軍人や貴族が実権を握り、皇帝の権威は低下しました。宮廷はローマからラヴェンナへ移り防衛重視の体制となり、中央政府の統治力が弱まって地方支配も揺らいでいきました。政治の不安定さが他の問題を悪化させる土台となったのです。
4〜5世紀、フン族の移動がヨーロッパ全体を揺さぶりました。フン族に圧迫されたゴート族などのゲルマン諸族がローマ帝国内へ流入し、ローマは彼らを受け入れる一方で統制に苦しみました。国境地帯の不安定化が西ローマの防衛をさらに難しくしていきました。
410年には西ゴート王アラリックがローマを略奪し、455年にはヴァンダル族もローマを襲いました。首都ローマの略奪は帝国の権威失墜を象徴し、ローマ市民にとっても心理的衝撃は非常に大きなものでした。「永遠の都」が繰り返し攻撃されるという事実は、帝国の終焉を人々に強く印象付けました。
戦乱と政治混乱で農業や交易が打撃を受けました。国家財政は悪化し、税負担は住民に重くのしかかりました。都市の活力が低下して貨幣経済も縮小し、経済の弱体化が軍事と行政の維持をさらに難しくしました。経済の弱体化が帝国の存続基盤を根底から揺るがしたのです。
西ローマは自前の兵力を維持しにくくなり、ゲルマン系の傭兵や同盟部族(フォエデラティ)への依存が強まりました。軍の忠誠は皇帝より指揮官に向かいやすく、防衛体制の弱体化が侵入を許す要因となりました。国境防衛の弱まりが帝国にとって致命傷となっていきました。
476年、ゲルマン人の軍人オドアケルが皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させました。これにより西ローマ皇帝の地位は消滅したとみなされます。オドアケルはイタリアを支配し、東ローマ皇帝に形式上従いました。この年は西ローマ帝国滅亡の象徴的な年として歴史に刻まれています。
西ローマ帝国の旧領にはさまざまなゲルマン国家が成立しました。一方で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は存続し、ローマの伝統を受け継ぎました。西ヨーロッパでは封建社会やキリスト教秩序が発展していき、西ローマの滅亡は中世ヨーロッパの出発点の一つとなりました。
今回は西ローマ帝国の滅亡についてお伝えしました。政治の混乱・経済の衰退・軍事力の低下・異民族の圧力という複数の問題が重なった結果、476年という節目が訪れました。この出来事は古代世界の終わりと中世の始まりを象徴しており、現代のヨーロッパにもその影響が続いています。