ペルシャ戦争(マラトンの戦い・サラミスの海戦)でのギリシャ勝利後、アテネが地中海の覇権を確立。紀元前461年にペリクレスが政界の実権を握り、アテネ黄金時代が始まる。ペロポネソス戦争(前431年)まで約30年間、アテネは文化・政治・経済の中心地として繁栄した。
ペリクレスは民会の権限を強化し、公職への参加に対する日当(報酬制度)を導入することで、貧しい市民も政治に参加できる環境を整えた。裁判員への報酬も設け、アテナイ民主政を実質的に機能させた。ただし参加できたのはアテナイ生まれの成人男性市民のみで、女性・奴隷・在留外国人は除外されていた。
ペルシャへの対抗として結成されたデロス同盟の金庫を、ペリクレスはデロス島からアテネへ移転。加盟都市国家の資金をアテネの建設事業(パルテノン神殿など)に流用し、同盟を事実上のアテネ帝国へと変質させた。これは後に大きな批判を浴び、ペロポネソス戦争の一因となった。
ペリクレスはアクロポリスの大規模再建を主導。紀元前447〜432年にかけてパルテノン神殿を建設し、彫刻家フェイディアスに内部の巨大アテナ像の制作を依頼した。こうした公共事業はアテネの威信を高めると同時に、多くの市民に雇用をもたらした。
ペリクレス時代のアテネでは、悲劇(ソフォクレス・エウリピデス)・喜劇(アリストファネス)・歴史叙述(トゥキュディデス・ヘロドトス)・哲学(ソクラテス)が花開いた。この時代に生み出された芸術・思想は後の西洋文明の基盤となり、「西洋文化の揺りかご」とも称される。
ペロポネソス戦争初年(前430年)の戦没者を悼む葬送演説は、トゥキュディデスの『歴史』に記録されている。「我々は、少数者でなく多数者の利益に基づく政体を持つ」と述べ、民主主義の理念を高らかに宣言。個人の自由と国家への奉仕の両立を訴えたこの演説は、民主主義思想の原典として今も参照される。
前431年、スパルタ率いるペロポネソス同盟とアテネの戦争が勃発。ペリクレスは海軍力によるアテネ防衛戦略を採り、陸上での衝突を避けた。しかし前430年に疫病がアテネを直撃し、市民の多くが死亡。ペリクレス自身も前429年に疫病で死去した。享年65歳前後とされる。
功績:アテナイ民主政の完成、パルテノン神殿を中心とするアクロポリス整備、文化・哲学の隆盛。批判:デロス同盟資金の流用による同盟国の反感、スパルタとの緊張を高めた外交政策、ペロポネソス戦争の開戦責任。後の民主主義思想に多大な影響を与えつつも、帝国主義的側面も持ち合わせていた。
ペリクレスはアテナイ民主政を完成させ、西洋文化の黄金時代を築いた政治家として歴史に名を刻む。彼の指導の下でパルテノン神殿が建立され、ソクラテス・ソフォクレスらが活躍した時代は、今も人類の文化的遺産の源泉となっている。民主主義の理念と実践を問い直す際、ペリクレスの葬送演説は現代でも引用され続けている。