前漢末には政治の乱れや社会不安が深まっていた。8年、王莽が帝位を奪い「新」を建国した。土地・貨幣・制度の改革は混乱を招き、民衆の不満が拡大した。洪水や飢饉も重なり、各地で反乱が起こった。
光武帝の本名は劉秀。南陽の有力一族の出身だった。学問と実務感覚に優れ、冷静で堅実な人物とされた。兄の劉縯とともに挙兵し、漢王朝の再興を目指した。乱世の中で少しずつ人望と勢力を集めていった。
23年、劉秀らは昆陽で新の大軍と対峙した。兵力では不利だったが、機動力と士気で勝機をつかんだ。新軍は大敗し、王莽政権の威信は大きく揺らいだ。この勝利によって劉秀の名声は一気に高まった。劉秀軍(約2,000騎・機動力重視)が数万〜数十万の新軍を破る歴史的転機となった。
更始政権の混乱の中、劉秀は河北で勢力を広げた。25年、自ら皇帝に即位し、国号を「漢」とした。歴史上は前漢と区別して「後漢」と呼ばれる。都を洛陽に置き、新王朝の基盤を築いた。
赤眉軍との抗争を制し、政権の基盤を固めた。西方の隴蜀、蜀の公孫述など各地の有力勢力を平定した。名将たちを巧みに用い、段階的に統一を進めた。36年ごろまでに中国の再統一を達成した。
ぜいたくを避け、質実で堅実な政治姿勢を示した。有能な官僚や将軍を登用し、功績に応じて処遇した。戦乱で疲弊した地域の回復を優先した。比較的安定した政治を実現し、「中興の祖」と称された。
租税や行政の仕組みを立て直し、統治を安定させた。荒れた農地の回復と農業生産の再建を重視した。戸籍や地方支配を整え、国家運営の基礎を固めた。洛陽を中心に後漢の長期安定につながる土台を築いた。
鄧禹・馮異・耿弇など、多くの有力功臣が活躍した。光武帝は武将だけでなく、文官の面でも人材を用いた。功臣を労いつつ、宮廷勢力との均衡を保った。優れた組織づくりで政治の安定を支えた。
断絶しかけた「漢」の秩序を再生し、後漢の出発点をつくった。戦乱から統一へ導いたリーダーシップが高く評価される。現実的な政治と人材活用は後世の模範となった。中国史における代表的な「中興の祖」として記憶される。