1215年ごろに誕生。モンゴル皇族の有力家系に生まれる。遊牧文化と中国文明の両方に触れて育つ。家系はチンギス・ハーン(1162-1227、モンゴル帝国創始者)→トルイ(1190-1232、チンギス・ハーンの第4子)→フビライ・ハーンと続く。二つの世界を学び、のちの統治に生かした。
1259年7月、モンケ・ハーンが死去し後継争いが勃発。1260年春、フビライが有能な官僚・武将の支持を集め、同年クルルタイ(大集会)で大ハーンを宣言した。兄アリクブケとの内戦を制し、帝国内での地位を確立。クルルタイでは遊牧民と都市の指導者たちが集まり話し合いで大ハーンを決める慣例があった。
1271年に国号「元」を定め、中国王朝としての正統性を示した。モンゴル帝国の武力を土台に中国の伝統と制度を取り入れた新しい王朝。ミニ年表:1251年(モンゴル大汗に就任)、1260年(中国支配を目指す)、1271年(国号を元と定め元朝確立)、1279年(南宋を滅ぼし中国統一)。騎馬民族中心のモンゴル帝国から、漢人文官を登用した中央集権国家へと転換した。
都を大都(現在の北京)に整備し、政治・経済・文化の国際都市とした。漢人官僚も活用して行政を強化し、広大な領域を支える制度づくりを進めた。中央集権:皇帝を頂点とする体制で諸地域を一元統治。駅伝制:各地に駅と宿舎を設け使者や物資を迅速に伝達。多民族統治:モンゴル人・漢人・西域人・チベット人など多様な人材を登用。大都の整備と制度確立によりユーラシアを結ぶ大帝国の基盤を築いた。
シルクロードと海上交易を通じてユーラシアの人・物・文化がつながった。交易を保護しユーラシア交流が活発化。紙幣(交鈔)の利用が広まり大規模な商取引が容易になった。多様な民族・宗教・文化が行き交い、絹・織物・磁器・香辛料・ガラス製品などが東西に流通した。ペルシア・中央アジア・中国の商人が往来し、元の時代はユーラシアが一つにつながる「大交流時代」だった。
南宋との長い戦いの末、1279年に南宋の幼帝が崖山の戦いで身を投じ南宋は滅んだ。これにより約150年にわたる南北の対立が終結し、中国全土を支配する王朝が成立。中国統一の意義:分裂の時代を終わらせ広大な人材と資源を統合して強力な国家基盤を確立し、その後の経済・文化の発展につながった。
日本への2度の遠征を行ったが、いずれも失敗に終わった。文永の役(1274):高麗を拠点に軍が出撃し対馬・壱岐を経由して九州北部に上陸したが、暴風雨に遭い撤退。弘安の役(1281):約14万人の兵と多数の軍船で出撃したが、台風などの自然の力と日本の防衛により大打撃を受け撤退した。2度の遠征失敗は元の海外拡張の限界を示した。
マルコ・ポーロの記録(東方見聞録)によって元の都の豊かさがヨーロッパに広く紹介された。東西交流の象徴的な時代となり、技術・道具(計算機・火薬・印刷機・紙)、作物・食文化、学問・宗教・思想、言語・文書・地図が東西間で交流した。人・物・知識が国境を越え、ユーラシアが一つにつながった時代として後世に語り継がれる。
元を建国し中国統一を実現:1271年に国号「元」を定め中国全土を統一し、漢人官僚を登用した中央集権体制を整えた。東西交流を拡大:シルクロードや海路の安全を確保し交易と文化交流を促進した。遠征政策には失敗もあった:日本遠征(文永・弘安の役)は失敗し、ベトナム(大越)への遠征も長期化して国力を消耗した。世界史に大きな影響を残した:ユーラシア全域を結ぶ大帝国を築き、多様な文化・宗教・技術の交流を後世に受け継がせた。フビライ・ハーンは遊牧帝国と中国王朝を結びつけた歴史的支配者である。