
初級3
13〜14世紀・ユーラシア
モンゴル帝国
編集部
チンギス・ハーンの孫フビライは、遊牧帝国モンゴルと中国王朝の伝統を融合させ、1271年に元を建国しました。東西交流の大動脈を整備し、マルコ・ポーロをも魅了したユーラシア大帝国の繁栄を築いた支配者の生涯を解説します。このスライドでは、生い立ちと家系・元の建国・大都と統治制度など、10枚のスライドでわかりやすく解説していきます。
フビライは1215年ごろ、モンゴル皇族の有力家系に生まれました。チンギス・ハーンを祖父に持ち、遊牧文化と中国文明の両方に触れながら育ちました。チンギス・ハーンから息子トルイへ、そしてフビライへと続く家系の中で、二つの世界を学んだ経験が後の統治に生かされていきます。
1259年7月にモンケ・ハーンが死去すると、後継争いが勃発しました。1260年春、フビライは有能な官僚・武将の支持を集め、クルルタイ(大集会)で大ハーンを宣言しました。兄アリクブケとの内戦を制し、帝国内での地位を確立しました。クルルタイとは、遊牧民と都市の指導者たちが集まり話し合いで大ハーンを決める慣例の場でした。
1271年、フビライは国号「元」を定め、中国王朝としての正統性を示しました。モンゴル帝国の武力を土台に中国の伝統と制度を取り入れた新しい王朝で、騎馬民族中心のモンゴル帝国から漢人文官を登用した中央集権国家へと転換しました。1279年には南宋を滅ぼして中国全土を統一しています。
フビライは都を大都(現在の北京)に整備し、政治・経済・文化の国際都市としました。漢人官僚も活用して行政を強化し、広大な領域を支える制度づくりを進めました。皇帝を頂点とする中央集権体制、各地に駅と宿舎を設けた駅伝制、モンゴル人・漢人・西域人など多様な人材の登用により、ユーラシアを結ぶ大帝国の基盤を築きました。
シルクロードと海上交易を通じてユーラシアの人・物・文化がつながりました。交易が保護されて活発化し、紙幣(交鈔)の利用が広まって大規模な商取引が容易になりました。絹・織物・磁器・香辛料・ガラス製品などが東西に流通し、ペルシア・中央アジア・中国の商人が往来する「大交流時代」が実現しました。
南宋との長い戦いの末、1279年に南宋の幼帝が崖山の戦いで身を投じ、南宋は滅亡しました。これにより約150年にわたる南北の対立が終結し、中国全土を支配する王朝が成立しました。広大な人材と資源を統合した強力な国家基盤の確立は、その後の経済・文化の発展につながりました。
フビライは日本への2度の遠征を行いましたが、いずれも失敗に終わりました。1274年の文永の役では高麗を拠点に出撃しましたが暴風雨に遭い撤退し、1281年の弘安の役では約14万人の兵と多数の軍船で出撃したものの、台風などの自然の力と日本の防衛により大打撃を受けて撤退しました。2度の遠征失敗は元の海外拡張の限界を示すことになりました。
マルコ・ポーロの記録(東方見聞録)によって元の都の豊かさがヨーロッパに広く紹介されました。計算技術・火薬・印刷・紙などの技術、作物・食文化、学問・宗教・思想、言語・文書・地図が東西間で交流し、人・物・知識が国境を越えてユーラシアが一つにつながった時代として後世に語り継がれています。
今回はフビライ・ハーンの生涯と功績についてお伝えしました。1271年に国号「元」を定めて中国全土を統一し、シルクロードや海路の安全を確保して東西交流を拡大しました。一方で日本遠征やベトナムへの遠征は失敗し国力を消耗した面もありましたが、ユーラシア全域を結ぶ大帝国を築き多様な文化・技術の交流を後世に受け継がせた、歴史的支配者として記憶されています。