
初級3
8世紀・律令国家
奈良時代
編集部
645年に蘇我氏打倒(乙巳の変)を契機に始まった古代日本の政治改革です。公地公民・国郡里制・班田収授・租庸調など、後の律令国家を支えた制度の原型がどのように形成されたかを解説します。
大化の改新の前、ヤマト朝廷では豪族が強い力を持ち、政治に大きな影響を与えていました。蘇我氏は朝廷内で勢力を伸ばし、天皇の権威はまだ十分に中央へ集中していませんでした。6世紀末〜7世紀前半、豪族が大きな力を持つ中で政治の立て直しが求められていました。
645年、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を討つ政変を起こしました。この政変を「乙巳の変」と呼び、蘇我氏の支配を終わらせて改革への道を開きました。中大兄皇子と中臣鎌足が謀議し、645年に宮廷で蘇我入鹿を斬って蘇我氏の支配を終わらせ、新しい政治体制づくりが始まりました。
クーデターの後、政治のしくみを立て直すため「改新の詔」が発表されました。改革の4つの柱は、土地と人民を国家のものとする公地公民・地方行政の再編(国・郡・里の整備)・戸籍の作成と班田・新しい税の仕組み(租・庸・調の整備)でした。豪族中心の政治から国家中心の統治へと転換しようとしました。
公地公民は大化の改新の重要な理念の一つで、豪族が私的に支配していた土地や人民を国家のものとし、天皇を中心とする統一的な支配のもとに置こうとする改革でした。豪族の私有地・私有民を縮小し、天皇中心の支配体制を強化することで、中央集権国家への重要な一歩となりました。実際には一度に完成したわけではなく、後の制度整備へとつながっていきました。
大化の改新では、地方の支配を強化するために国・郡・里という行政単位に再編しました。中央政府が直轄し各地を管轄して仕組みを整えることを目的とし、地方行政を段階的に管理する体制を整えました。豪族ではなく国家の統治を強めるこの仕組みが後の地方制度の基礎となりましたが、実態整備は段階的に進められ地方豪族が郡司として役割を担うこともありました。
国は人民の数や土地の広さを正確に把握するため、戸籍を整えて人民を管理し、土地を均等に分ける班田収授の考え方を進めました。人民を国家が直接把握し、土地配分の基礎を整え、税と労役の公平化を目指しました。班田収授法は後の律令制によって明確に整備されていきました。
中央集権国家を維持・運営するには安定した財政の確保が必要でした。その改革の方向性は後に「租・庸・調」と呼ばれる制度へとつながり、田からの収穫の一部を納める租・労役代わりの負担である庸・地方の特産物などを納める調が整えられました。これらの制度は後の律令制のもとでより明確に整備されていきました。
大化の改新はすべてを一度に完成させたわけではありませんでしたが、権力を天皇中心に集め国家の仕組みを整える大きな転換点となり、後の律令国家へとつながっていきました。天皇中心の政治の強化・蘇我氏勢力の後退・律令国家の基礎の形成・大宝律令への接続という影響をもたらしました。
今回は大化の改新についてお伝えしました。645年に蘇我氏が滅んだ後に始まったこの政治改革は、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となり、天皇を中心とした中央集権的な国家をつくることを目指しました。公地公民・地方行政と税制の整備を経て後の律令国家の基礎となった、日本古代史の重要な転換点です。