
初級3
平安末期・中世日本
源平合戦と武士の台頭
編集部
12世紀末、源頼朝が鎌倉に開いた日本初の本格的な武士政権が鎌倉幕府です。御恩と奉公の主従関係、守護・地頭制度、そして執権政治が確立され、日本の政治構造を大きく塗り替えました。
平安時代後期、地方では武士団が成長し、荘園の拡大や土地の管理を通じて武士の力が高まりました。朝廷では藤原氏が権力を握り、平氏が宮廷内で政治の実権を掌握しました。源氏と平氏の対立が激化して各地で戦乱が起こり、戦乱や飢饉の中で武士が秩序維持の担い手として台頭していきました。
1180年に源頼朝が挙兵し、1185年には守護・地頭を設置しました。1192年には征夷大将軍に任命され、鎌倉を本拠地として武士をまとめました。挙兵から守護・地頭の設置、そして将軍任命へという流れで、鎌倉幕府が成立していきました。
将軍が幕府の最高権力者として武士を統率し、北条氏が担った執権が幕府政治の実権を握りました。主要機関として、武士の統率・警察を担う侍所、財政・行政を担う政所、訴訟・裁判を担う問注所が置かれました。地方では守護が国ごとに武士を統率・監督し、地頭が荘園や公領に置かれて年貢の徴収と地方の管理を担いました。
幕府と御家人の関係は御恩と奉公の相互関係で成り立っていました。御家人は忠誠を誓い軍役に従事する奉公を行い、幕府は所領を安堵し新たな土地を与える御恩で報いました。この主従関係が武士社会の基盤となり、幕府が御恩を与え御家人が奉公するサイクルが繰り返されました。
源頼朝の死後、北条氏が実権を握り、執権が将軍を補佐してやがて政治の中心となりました。1221年の承久の乱では朝廷側の後鳥羽上皇が倒幕を企てましたが失敗し、幕府の力が強まりました。1232年には武士のための法律として御成敗式目が制定され、社会の秩序が定められました。
鎌倉時代には武士に禅宗が広まるとともに、浄土宗・浄土真宗・日蓮宗など新しい仏教が普及しました。質実で力強い武士文化が発展し、運慶・快慶などの仏像彫刻も高い評価を受けました。阿弥陀仏への信心を重んじる浄土系の宗派や、法華経を中心とする日蓮宗など、多様な宗教が人々の生活に根づいていきました。
1274年の文永の役でモンゴル軍が九州に上陸し、1281年の弘安の役では再び大規模な侵攻が行われました。幕府は博多湾沿岸に防塁を築いて対抗しましたが、てつはうや大軍の襲来に苦しみました。戦後は御家人への恩賞が不足し、この問題が鎌倉幕府衰退の一因となりました。
元寇後、幕府の財政は悪化し御家人の不満が高まりました。後醍醐天皇が倒幕をめざし、1333年には新田義貞らの攻撃で鎌倉幕府は滅亡しました。元寇から財政悪化と御家人の不満、後醍醐天皇の倒幕運動を経て、1333年に鎌倉幕府が滅亡するという流れでした。
今回は鎌倉幕府についてお伝えしました。鎌倉幕府は日本で初めての本格的な武士政権であり、武士による政治の仕組みを確立しました。守護・地頭制度や御恩と奉公の仕組みが後の時代に影響を与え、室町幕府・江戸幕府へとつながる土台を築きました。