1867年、ロシアは広大なアラスカの土地をアメリカに売却しました。アラスカは19世紀まではロシア領でしたが、財政・防衛・外交の複合的な事情から手放す決断をしました。このスライドでは財政難・防衛上の困難・毛皮貿易の衰退・英国への牽制という4つの理由から、当時のロシアにとっての合理性を10枚で整理します。
18世紀後半、ロシア人探検家や商人がアラスカへ進出し、毛皮、とくにラッコの交易を目的に植民地経営を始めました。露米会社(ロシア領アメリカ会社)が植民地経営を担い、シトカ(当時のノヴォ・アルハンゲリスク)が主要拠点となりました。こうしてアラスカは「利益を生む辺境植民地」としてロシア帝国の版図に組み込まれていました。
1853〜1856年のクリミア戦争でロシアは大きな痛手を受けました。戦費と敗北の影響で国家財政は立て直しが急務となり、優先度の低い支出を削る必要に迫られました。アラスカのような遠隔地の維持費は優先度の低い出費とみなされ、利益の薄い植民地を持ち続ける余裕がなくなっていきました。
ロシア本土からアラスカまでは補給も通信も非常に大変で、人口が少なく軍事拠点としても守りにくい状況でした。とくに英国カナダに隣接しているため、戦争時に奪われる不安がありました。守るコストに見合うだけの安全保障上の利点が小さく、「持っていても守れない」という現実が売却を後押しする要因となりました。
初期にはラッコなどの毛皮交易が大きな収益源でしたが、資源の減少により収益性が低下しました。経営コストや輸送コストも重くなり採算が悪化し、アラスカは「利益を生む資産」から「重荷」へと変わりつつありました。もう昔ほど儲からないことも、売却を後押しする経済的理由となりました。
ロシアは英国との対立を強く意識しており、もし戦争になればアラスカは英国カナダから攻撃されやすい地位にありました。英国に奪われるくらいなら、友好的な米国へ売ったほうが得策と考えました。アメリカの北米拡大を促すことで英国を牽制する外交的意味もあり、売却は「損切り」であり「対英牽制」でもありました。
ロシア側の交渉役はストックホル米公使が担い、アメリカ側では国務長官ウィリアム・スワードが推進しました。1867年、アラスカは720万ドルで売却され、1エーカーあたり約2セントという非常に安い取引でした。売却は偶然ではなく、双方が利益を見出した周到な外交交渉の結果でした。
当時のアメリカでは売却への批判も多く、「スワードの愚行(Seward's Folly)」と揶揄されました。広大な雪原地帯に大金を払ったと批難する声があり、「氷の箱」のような無価値な土地とみる人も少なくありませんでした。一方で少数派の意見として、北の広大な領土を取得し将来の発展に期待するという声もありました。当時は「失敗な買い物」に見えた人も多かったのです。
1890年代以降、金・鉱石などの天然資源の価値が注目され、20世紀には石油・天然ガス・水産資源も重要な産業となりました。アジアと北米を結ぶ戦略的位置として、軍事上も大きな意義を持つようになりました。結果として、アラスカはアメリカにとって非常に有利な買い物となり、「寒いだけの土地」ではなく将来価値の高い地域だったことが明らかになりました。
アラスカ売却の背景には、財政・防衛・外交・収益の4つの要因が重なっていました。クリミア戦争後の財政難で維持費を払えなかったこと、遠隔地で防衛が難しかったこと、英国への牽制として友好的な米国への売却を選んだこと、毛皮貿易の利益が落ちていたことが理由として挙げられます。アラスカ売却は当時のロシア帝国の現実的な選択であり、歴史は「当時の合理性」と「後の結果」の両方から見ると分かりやすくなります。今回はなぜロシアはアラスカをアメリカに売ったのかについてお伝えしました。