辺境の少年から学び続ける青年へ。1809年にケンタッキー州の丸太小屋で生まれる。貧しい開拓民の家庭で育つ。学校教育はわずかだったが独学で勉強。労働・商店勤務・測量・郵便局長など多様な仕事を経験。誠実さから「オネスト・エイブ」と呼ばれるようになる。どんな環境でも努力すれば未来は自分で切り開ける。学ぶ意欲が人を高める最強の武器であり、誠実であることが信頼される力になる。
独学で法を学び、公共の場へ進む。独学で法を学び弁護士になった。イリノイ州議会の議員を経験。演説と討論の力でホイッグ党の政治家として台頭。1847年に連邦下院議員となり、その後は法律事務所に戻る。自力で道を切り開き、人を動かす言葉を持ち、政界に貢献する力がある。自分を信じ努力を続ければ、やがて人の役に立つ存在になれると信じた。
拡大に反対し、国家の進路を問う。奴隷制度の拡大に強く反対した。特に新しい州や準州への奴隷制拡大に反対。カンザス・ネブラスカ法をきっかけに法と制度の中心へ。人間の自由を自然の理念として奴隷制への否定を示す。ただし即時廃止には当時は段階的・現実的な手順もあった。独立宣言と憲法の整合性に訴え、自由の追求が国家の基盤であると主張。カンザス・ネブラスカ法を機に議会での積極的な法制度の変革に挑んだ。
国家分裂の危機に立ち向かう。1860年の大統領選に当選。これに反発して南部諸州が連邦離脱を宣言。1861年に南北戦争が始まった(北軍対南軍)。フォート・サムター攻撃を皮切りに本格的な戦争へ突入。リンカーンの最大の目標は合衆国の維持であった。北部・西部を制した共和党(リンカーン)対南部諸州の民主党。北軍は序盤に苦戦。危機においてリーダーシップを発揮し、合衆国の維持を最優先に戦時下での難しい決断を重ねた。
戦争目的を自由の実現へ広げる。1863年に奴隷解放宣言を発表。反乱州の奴隷を解放するとした。すべての奴隷を解放したわけではないが歴史的転換点となった。北軍に黒人兵士が参加する流れを促進。戦争が「国家統一」だけでなく「自由」をめざす戦いへ変化した。自由と平等を掲げる国家の方向性を定め、黒人兵士の参加により北軍の軍事力を強化し、アメリカが自由を前に進める意思表示となった。
短い言葉で民主主義の核心を示す。1863年、ゲティスバーグで戦没者慰霊式典が開かれた。リンカーンは短い演説で戦争の意義を再定義した。「人民の、人民による、人民のための政治は、地上から決して失われない。」という言葉で民主主義の本質を示した。自由と民主主義の価値の強さを世界に示した。歴史上もっとも有名な政治演説の一つとして記録される。短く心に響く言葉が人々の心を動かし、160年後の今も世界で語り継がれている。
勝利の先に和解と再出発を描く。1865年に北軍勢力が優位となり南北戦争は終結へ向かった。リンカーンは敗れた南部に対して過激な報復ではなく、奴隷制廃止後の社会再建が大きな課題であると示した。第2回就任演説では「誰に対しても悪意なく」の精神を表明した。分断後の国家をどう立て直すかを深く考えていた。包容心で相手を赦し受け入れること、社会の安定と再建が次の時代の礎になること、勝っても思いやりを持って社会をまとめることを信念とした。
勝利の直後に失われた指導者。1865年4月14日、ワシントンのフォード劇場で銃撃される。実行犯はジョン・ウィルクス・ブース。翌日に死去し、国民に大きな衝撃を与えた。自由と統一への道を切り開いたリーダーの死は国に深い悲しみを残した。暗殺後、政治的妥協による対話の機会が失われた可能性があり、アメリカの再建という歴史的課題の先頭に立つ存在を失った。
自由・統一・民主主義の象徴として生き続ける。奴隷制廃止への道を開いた人物として高く評価される。合衆国の礎を守った大統領とされる。リンカーン記念堂や紙幣にも名が刻まれている。危機の時代におけるリーダーシップの模範とされる。現代でも自由・民主主義を考える際の重要な存在。信念を持ち正しいと信じる道を貫くこと、分断を乗り越え対話と理解で社会をまとめること、自由と民主主義を守り未来の世代に引き継ぐことを今日に伝えている。